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実録山の辺の道
を歩く
前編

Part 4檜原神社から
景行天皇陵まで

檜原神社から休憩処を見ながら井寺池畔へと向かいます。
ここで一休みもいいかもしれません。

井寺池畔池のほとりの桜が美しい

大神神社の大鳥居、大和三山から二上山までの眺望が広がる展望台です。春は桜が美しく、眺望に彩りを添えます。

静かな
たたずまいの
井寺池畔

檜原神社近くの井寺池畔は、桜の美しい場所で、かのヤマトタケルノミコトの「望郷の歌」の碑が立てられています。揮毫(きごう)したのは川端康成です。

望郷の歌

大和は
国のまほろば
たたなづく
青垣
山ごもれる
大和し(うるわ)

作者は天皇の御子、ヤマトタケルノミコト。「まほろば」とは一番良いところ、という意味。古事記では、勇猛さゆえに天皇である父親に疎まれ、息つく暇も無く、東奔西走、全国平定を命じられた皇子は、故郷の大和を目前にして死を迎えるという悲劇が語られている。死を悟った皇子が、望郷の想いを詠んだ歌。古事記ストーリー 4

西に二上山を遠望す

ここは、二上山に沈む夕日が美しいことでも知られています。飛鳥や藤原京といった古代都市から見れば、西にある二上山は、西方浄土(阿弥陀仏のいる極楽浄土)を思わせる特別な山でした。二上山と言えば、大津皇子の墓がある場所。大津皇子は、天武天皇と后であった持統天皇の姉との間に生まれた皇子で文武両道の立派な男子でした。しかし、父も母も亡くなった後、持統天皇(大津皇子からみると叔母)の時代になると、持統天皇の息子と皇位を争う立場となり、結局、謀反の疑いで処刑され、二上山に葬られます。持統天皇が息子に跡を継がせたいがために謀ったという説が有力です。姉妹が同じ男性と結婚することは珍しくない時代だったのですが、やはり心情的には複雑だったことでしょう。
ドラマになりそう~

相撲神社相撲発祥の地

大神神社の大鳥居、大和三山から二上山までの眺望が広がる展望台です。春は桜が美しく、眺望に彩りを添えます。

土俵のようなものが見える!
はい、こちらは相撲神社で野見宿禰(のみのすくね)と當麻蹶速(たいまのけはや)が初めて天覧相撲を行ったところ、と言われています。つい近くに第12代景行天皇が政務を行った宮跡とされる「纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)跡もあります。

額田王歌碑三輪山を臨む絶景

額田王が歌を詠む時に見たその情景を、思い起こさせる三輪山の姿が今も美しい。

額田王(ぬかたのおおきみ)
万葉歌碑から臨む
三輪山

この歌は、667年に飛鳥から近江への遷都があった頃、移動の道すがらに詠まれたと考えられます。住み慣れた大和を去るのが寂しいという気持ちを込めて、その象徴である三輪山への思慕が謳われています。この頃までは、山の辺の道は幹線道路でしたが、持統天皇の藤原京時代には、別の幹線道路が作られ、その役目を終えることになります。万葉歌碑番号 1

景行天皇陵(山辺道上陵)第12代景行天皇の陵墓

第12代天皇、景行天皇の陵墓とされる古墳。全長が300mもある大きな前方後円墳で、全国でも7位の規模を誇るもの。

随分、大きな天皇陵だね
第12代天皇、景行天皇のお墓で、スタイルは前方後円墳。周囲には1㎞の濠(ごう)が巡り、全国第7位を誇る規模となります。本日の春の山の辺の道歩きはここまで。おおよそ半分近く来ました。最後にクイズ。景行天皇といえば?
ヤマトタケルノミコトのお父さん
正解!古事記ストーリー 4

前編を終えて…

今回の「山の辺の道を歩く」の前編はここまで。
夕焼けに染まる二上山を見ながら後編へ思いを馳せます。