万葉集
言霊信仰を背景とした、
人々の息遣いが感じられる珠玉の歌集
万葉歌碑を巡る山の辺の道編
7世紀後半から8世紀後半ころにかけて編まれた 日本に現存する最古の和歌集として知られる万葉集。山の辺の道にも万葉歌碑が多く、場所との関連は特に無いと思われるが、かの地にふさわしい、物語を膨らませやすい歌をいくつか紹介しよう。
その前に、万葉集鑑賞のポイントとして覚えておきたいのが、「言霊信仰」。日本の詩歌の始まりは、神様に捧げる詔とも言われており、「言葉には霊力があって、発した言葉が現実になる」と信じられていた。だから、縁起の良い言葉を使った歌を詠んで幸せを祈る、また情感あふれる言葉で死んだ人の魂を慰める、そういうことがとても大切であった。そんな時代に生きた人々、庶民から天皇まで、多様な身分の人々の歌が集められていることが万葉集の際立った特色である。歌ととりあえずの解説を読むだけでなく、「言霊的にはどうか?」と想像してみよう。そうすればあなたも万葉ワールドに引き込まれるはず…!
歌碑番号①額田王
うま酒 三輪の山
青丹よし奈良の山の
山のまにい隠るまで
道のくまいさかるまでに
つばらにも 見つつ行かむを
しばしばも 見さけむ山を
心なく雲の 隠さふべしや
なつかしい三輪山よ。この山が奈良の山々の間に隠れてしまうまで、また行く道の曲がり角が幾つも幾つも後ろに積もり重なるまで、充分に眺めていきたい山であるものを、たびたび振り返っても見たい山であるものを、無情にもあんなに雲が隠してしまっていいものだろうか
作者は、額田王(ぬかたのおおきみ)で、天智天皇と天武天皇の兄弟に愛されたと言われ、宮廷歌人としても活躍した女性。宮廷歌人は、皇族などに仕え、公の場で歌を詠む人のことで、柿本人麻呂などもそうであったと考えられている。宮廷歌人という職があったわけではないが、折に触れ、天皇のために無事を祈る歌や高貴な人が亡くなったときに魂鎮めの歌を捧げる役割を担っていた。しかるに、この歌も個人的というよりは、公的な場、例えば、飛鳥から近江への遷都のための移動の途中で、詠んだ歌かもしれない。
歌碑番号⑬高市皇子
山吹きの
立ちしげみたる
山清水
酌みに行かめど
道の知らなく
十市皇女のお墓の周辺には、黄色い山吹に取り囲まれた山の清水がある。それを汲むために、皇女の御霊は通っておられるだろう。行って逢いたいけれど、その道を知らないのだ。
上記は、現実的な訳だが、山吹と清水は黄泉の国をイメージしているという説もある。墓の場所と歌碑の場所とは関係無い。いずれにせよ、高市皇子(たけちのみこ)が、十市皇女(とをちのひめみこ)が若くして亡くなった時に、詠んだ挽歌の一つで、深い悲しみが伝わってくる。高市皇子と十市皇女は天武天皇を父とする異母姉弟(どちらが年上かは不明)で、十市皇女の母親は額田王である。異母であれば結婚できるので、恋仲説もあるが、十市皇女は長じて、天智天皇の跡継ぎである大友皇子の后となる。しかし父、天武天皇によって夫は滅ぼされ(壬申の乱)、30歳前後で急逝する。その死も突然で様々に憶測が飛び交っているが、悲劇のヒロインであることは間違い無い。万葉集には挽歌がたくさん収められており、穏やかな死よりも不慮の死に対する鎮魂の意味が強い。
歌碑番号㊽天智天皇(中大兄皇子)
かぐ山は畝火ををしと
耳成と相あらそひき
神代よりかくなるらし
いにしへも
しかなれこそ
うつせみも
つまをあらそふらしき
香久山は畝傍山が愛おしく、耳成山と争った。神代の頃からこんな風なことはあったらしい。人の世の遠い昔もそうだったのだろうから、今の世でも男たちは妻を取り合って争うことらしい。
作者は、天智天皇(中大兄皇子)。歌碑番号1の歌を詠んだ額田王を挟んで、弟の天武天皇(大海人皇子)と三角関係らしき状況にあったと考えられている。定説では、額田王は、大海人皇子と結婚し、歌碑番号13の解説に登場したヒロイン、十市皇女を生んだ後に、中大兄皇子に求められて後宮入りしたとされるが、この女性の人物像は謎に包まれている。